地元で働きたい私が、アスカに恋をした日──働く場所を“好き”で選んだ、私の決断

1991年、和歌山県新宮市生まれ。実家は神社。大学卒業後、地元金融機関で9年間、数多くの企業の成長支援に奔走し財務分析・交渉術・リスクマネジメントを鍛える。2021年、アスカフューネラルサプライに参画。23年にCFO、翌24年から代表取締役社長代行として財務・総務・エリア統括・新規事業など幅広く手がける。「仕事が趣味」 と語り経営戦略 × リーダー育成で組織を牽引している。人と話す時間は、三度の飯より大好物。
「えっ、亮さん? お久しぶりですね!」
31歳のある日、通っていたトレーニングジムで田中社長と偶然再会しました。
私は大阪の大学を卒業後、地元の金融機関に就職。
もともと話好きな私。気の合う同世代の社員と和気あいあいと働きながら、バイクで地域をまわり、お客様の自宅や会社に訪問しいろんな話をする。
そんな日々に、割と満足はしていたんです。
その頃の訪問先のひとつに、アスカがありました。
「西君は紅茶やよね?」
「西君、金利下げてくれへん?笑」
「西君、忘年会おいでよ!」
「イベント用にハッピ買ったから着てみ!(なんで?笑)」
こんなノリでいつも親しみをもって、金融機関の“ただの担当者”である私を、温かく迎えてくれる会社でした。
金融機関で働き続け、31歳の時に転機が訪れます。
今後の会社の未来のためにと同僚たちと一緒に考えて提案した改善案が、資料に目も通されず却下されたとき、私は心のどこかで「もういいや」と感じてしまいました。
やりがいも情熱も、失った瞬間だったかもしれません。
そんな中、ジムで田中社⾧と偶然にバッタリ。
久々に会い色んな話をたくさんしました。
今思えばその時は、ほとんどトレーニングしてない。
田中社⾧の仕事に対する大きな熱量を感じ、自分自身の小ささを認識するとともに
「生まれ育ったこの場所で、生きてんのにまだ死にたない!」
と思い転職を決意。
話を聞いて3日目の朝には、退職しますと伝えていました。
まったく知識のない世界。右も左も分からぬ久々の感覚。
1 年目はお葬儀のプランナーとしてご遺族さまに寄り添う毎日。
ご遺族さまからいただける心からの「ありがとう。」
お葬式は故人さまのためだけじゃなくて、残された人が“明日から前を向いて生き直していく”セレモニーなんだと。
そう自分の中で腹落ちしてからは、故人さまと遺族さまをまず「知る」ことに常に全力を。
大切な人だった方達に私に何かできないか、試行錯誤する毎日。
以前に比べて、毎日一生懸命人のこと考える自分が好きになっていました。
2年目には CFO(最高財務責任者)に就任。自分自身でも驚くのほどの抜擢。
ただ前職の経験もあって期待に応えたいという思いもあり
「任してくださいよ!」と息巻いていました。
が、現実はというと、
外からただ評価するだけの数字と、会社の意思決定を促す数字を中から作っていくこと。
「こんなにも違うなんて。」
「分からない事の方が多いんじゃ。」
と、またしても自分の知識不足を痛感するとともに、負けず嫌いな私はイチから毎日勉強し直すことに。
Excel の中でキレイに並んだ数字を組み替えていくだけのはずが、現場では予想外にユレまくり。
評価すること(見る) と 数字を動かすこと(やる) の壁。
PL やBSの裏側でお客様やチームのために走り回ってくれているスタッフ。
経営における確実な「正解がない」中で決断を促す数字の怖さ。
数字は物凄くドライです。でも、その数字で“人”を豊かにできるかどうかは自分次第。
ここでの葛藤と気づきは、社会人になって一番の “学び直し” となりました。
いまは和歌山県の串本~三重県の熊野エリアの葬祭事業を丸ごと統括しながら、引き続き、財務・総務・事務・新規事業計画なんでも来い!の状態でやっています。
代表から引き継いだ「経営理念」「クレド」「ACC(行動指針)」を軸に、自分の色もすこーし足しながら、新体制になったリーダー・社員達と共に目標に向かって切磋琢磨する毎日。
経営者の側に立ち、今まで見えていなかった部分も見えてきて・・・
⾧くなっちゃいそうなので、この部分はまた追々発信していきます。笑
正解は決して一つじゃない。選んだ道が結局正解なのかも分からない。
だからこそ 私は学び続ける姿勢を忘れないようにしています!
このオウンドメディアでは、現場で拾ったちょっとした気づきや失敗談、面白い話など、ありのままを発信していきます。
読んでくださるあなたの「明日からも頑張ろう」と思えるヒントになれば、こんなに嬉しいことはありません。
肩の力を抜いて、ときに一緒に悩みながら、新しい未来をつくっていきましょう!
それでは、これからどうぞよろしくお願いします!